2016年4月10日日曜日

ドSな彼は憧れの上司 試し読み

桜庭さくらば!」

 怒気を帯びた声。

 顔をあげると、総合商事《そうごうしょうじ》総務部の若き部長、二ノ宮康介にのみやこうすけと目が合った。

 クールに整った目立つ美貌が、怒りに凄味を帯びている。

 桜庭真央まおは一瞬で嵐の気配を察知した。

「は、は、はい! なんでしょう。部長!」

 弾かれたように立ちあがり、真央は窓際のデスクへと駆け寄った。

「おととい、緑町物産みどりまちぶさんに手形を送ったのはお前か?」

 長めの前髪からのぞく切れ長の目が、まっすぐ真央を見据えている。

「そうですけど……」

 二ノ宮の眉がくい、と吊り上がった。

(うう……こ、怖い……!)

 彼が総務に来てからの二年間、何度となく見せられた表情である。

 まだ決定的なことは言われていないのに、胃のあたりが早くもキリキリ痛みはじめている。

「……何か間違いでもあったんでしょうか?」

「大ありだ。手形の金額が一桁違うと緑町から連絡があった」

「一桁って……」

「三百万が三千万」

「ええっ!」

 ざーっと、顔から血の気が引く音が聞こえた気がした。

「申し訳ありません!!

 泣きそうになりながら頭をさげると、二ノ宮は苦虫をみ潰したような顔で立ちあがった。

「不幸中の幸いで担当事務員が大学の同期だった。多分なんとかなるだろう……ったく、換金されてたら大事だったぞ」

 二ノ宮は背もたれにかけていたジャケットをつかんだ。

「今から緑町に行く。お前も来い。十分後に玄関前集合だ」

 二ノ宮はボードのネームプレートを二人分裏がえすと、肩をいからせフロアを出て行った。

「先輩、何かありましたぁ? 王子、すごく怒ってましたねー」

 パソコンの電源を落としていると、隣席の田中康子たなかやすこが、いそいそと話しかけてきた。

 一年後輩の彼女は、真央と違って明るく要領がいい。

 かろうじて敬語を使ってくれているものの、先輩としての威厳なんて、とっくの昔になくなっているのは表情の端々からはっきりわかる。

「手形の金額をね、一桁間違えて送ってたの」

「それ、大変じゃないですかぁ。でも、先輩なら、やりそうです」

 人事みたいに笑う康子に、真央はおずおずと言い返す。

「でもさ、あれ、康子ちゃんが……」

「ん? 私がどうかしましたぁ? 先輩?」

 康子の笑顔がふいに消えて、意地悪そうに唇が歪む。

「ううん、何でもないよ」

 真央は言葉を飲み込んだ。

 

 緑町物産の担当者は、如月加奈子きさらぎかなこという名前の、ショートカットがよく似合う都会的な美人だった。

 二ノ宮とは同い年らしいが、加奈子のほうが年長に見える。

 目の下にある色っぽい泣きぼくろが、コケティッシュな印象をより強めていた。

「もちろん手形は返すわよ。でもタダというわけにはいかないわね。康介にはゼミのディベートで散々痛い目にあってるんだから。貸しを返してもらわなくちゃ」

 形のいい脚を組み替えながら、加奈子は挑戦的な笑顔を浮かべている。

「……わかったから、さっさと条件を言え」

 人が出払っていてフロアに加奈子以外いないせいか、二ノ宮は会社にいるときよりもラフな態度だ。

(想像してた以上に、仲良しみたい……本当になんとかなりそうかも……)

 二人のやりとりを眺めながら、真央はほっと胸をなでおろした。

「そうねえ。あなたの写真を撮らせてちょうだい。写メ程度の簡単なのでいいから。同期の二ノ宮康介ファンに見せびらかしたいのよ」

 二ノ宮の顔色が変わった。

「はあ? あのな……」

「嫌なら交渉決裂よ」

 加奈子はにっこりと微笑んだ。

 

 数分ののちに、手形はこちらの手に戻った。

 正しい宛先の封筒に入れ替え、真央は街路ぞいのポストに投函する。

「加奈子め……すっかり調子にのりやがって」

 二ノ宮はネクタイの結び目に指を入れてぐっと引き下げ嘆息した。

 写真を撮られるのが嫌いだと、常日頃から公言している彼にとって、加奈子の要求にこたえるのはかなり面倒なことだったらしい。

『これ、同期に見せるだけじゃ勿体ないわね。康介はうちの会社にもファンが多いのよ。イケメン王子、なーんて呼ばれちゃってるんだから』

 スマホの画面を眺めながら、満足気に呟く加奈子の傍らで、二ノ宮は終始仏頂面だった。

(イケメン王子……部長ってどこでもそう呼ばれているんだ……)

 加奈子に翻弄されていた二ノ宮の様子を思い出し、真央はくすりと笑ってしまう。

「加奈子さんって面白い方ですね。サバサバしてて明るくて、素敵です」

「影響されるなよ。ろくなもんじゃないから」

 二ノ宮は形のいい眉をひそめる。

(もしかして、部長と加奈子さん、つきあってるのかな……?)

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。

 もしそうだとすれば、社内の女子社員たちは大騒ぎだ。

 口が悪くて愛想はないが、キレ者の二ノ宮は社内でも、絶大な人気を博している。

 

 真央だって例外じゃない。

 

 彼が赴任してきたばかりの頃は、あまりの厳しさに震え上がった。

 ただ、もともと真央は筋金入りのネガティヴで自己肯定力が低い。

 田舎で教師をしている両親にこの上なく厳しく育てられたため、幼少期から、他人の顔色をうかがうことにも慣れていた。

 真央が失敗をしでかすたびに、容赦なく怒鳴り飛ばされたが、それでも憧れを止めることはできなかった。

 もちろん、恋というほどでもない、ほのかな想いなのだけれど……。

(加奈子さんと部長なら、可愛い子供が生まれるんだろうな……)

 そんな妄想を浮かべても、胸が痛まない程度に軽い想い。

 

「……今日は直帰だ。加奈子に精力を吸い取られた」

 妄想は、疲れた声に遮られた。

「私のせいで本当に申し訳ありませんでした……」

 真央は改めて頭をさげる。

「そうだな。全部お前のせいだな」

 そう言うと二ノ宮は真央をまじまじと見て、

「桜庭。今夜何か用事はあるか?」

 さっきとはトーンの違う声で、尋ねてきた。

「いいえ……何も……」

「じゃあ、今から俺につきあえ。話がある」

 

 

 二ノ宮と一緒に訪れたのは、都内の高級ホテル内にあるフレンチレストランだった。

 流線型のシャンデリア。

 ハイブランドのドレスに身を包んだ男女たち。

 真央がかつてただの一度も足を踏み入れたことのない、ゴージャスな空間である。

「何か食べられないものはあるか?」

 二ノ宮はちらりとこちらに視線を向けた。

「いいえ……」

「じゃ、コースメニューでいいな」

 二ノ宮はやってきたウェイターに、流暢なフランス語で料理を頼む。

 セレブな雰囲気に気圧されている真央とは正反対に、彼は見た目も態度もすんなりとこの店に馴染んでいる。

 華やかな場所にいるせいか仕事中よりもオーラが増していて、まるで高級な置物が目の前に鎮座しているみたいだ。

 食前酒が運ばれてくる。

 優雅な仕草でワインを飲む二ノ宮をすがるように見つめながら、

「部長、後でお金をおろしてきていいですか……? 今、少ししか持ち合わせがなくて」

 ウェイターに聞こえないよう、声をひそめて真央は言った。

 二ノ宮は呆れたように片眉をあげる。

「あのな、これでも一応お前の上司なんだぜ。貧乏なOLから金をむしり取るほど、俺は鬼畜じゃねえよ」

 どうやらご馳走してくれるつもりらしい。

「でも、ここって高いんじゃ……?」

「そんなことは気にしなくていい」

 一蹴され、真央は戸惑いながらも「ありがとうございます」と礼を言う。

 やがて、食事が運ばれてきた。

「桜庭。今日の手形についてだが」

 二ノ宮が低い声で話しかけてきた。

『話がある』といわれた瞬間から、お説教を覚悟していた。

 真央はいずまいを正して二ノ宮に向き合う。

「あれ、本当はお前の担当じゃないだろ」

「え?」

 真央は両目を丸くした。

「その反応。当たりだな。田中のミスをお前がかぶった。そんなとこだろ?」

 二ノ宮はあっさりとそう続けた。

「それは……」

 真央の目が左右に揺れる。

 なぜわかってしまったのだろう。

 あの手形は病欠中の康子に電話で頼まれ、郵送したものだった。金額を書き込んだのも、宛名を書いたのも康子で、真央はただ郵送伝票にチェックを入れ、社外便の箱に投函しただけである。

「お前は確かに抜けてるが、誰かを巻き込むようなミスはしない。最初からおかしいと思ってたんだよ。こういうの、初めてじゃないよな。お前、ちゃんとあいつに注意したか?」

「……いいえ」

「どうして?」

 厳しい視線に黙り込む。

「問題をなかったことにするのが優しさだと思ってるのか? だとしたら考え方が根本から間違ってるぞ。人とのコミュニケーションから逃げてるだけだ」

 二ノ宮は容赦ない。

「これからは気をつけます」

「適当に言うな。どうせ無理だろ」

 ぴしゃりと否定され、真央はハッとして顔をあげた。

「お前の気の弱さは筋金入りだよ。田中だけじゃない。女子社員のほとんどにめられてるだろう。人事の方針で、うちは気の強い新人揃いだからな。お前みたいなのはうちの会社には向いてない」

 どうやら、いつものお説教とは違うみたいだ。

 辛辣で的確な指摘に、胸がグサグサとられていき、食事の味がわからなくなった。

「桜庭。今年いっぱいで会社をやめろ」

 ごくさりげない調子で二ノ宮は言った。

「え……?」

 真央は愕然とした。

(これって、まさかの肩たたき……?)

 二十五歳の使えないOLなんて切ってしまえ、と、そう二ノ宮は思ったのだろうか。確かに今日の失敗は特別なものだったし、ただでさえ不景気なご時世である。

 でも、自分なりに一生懸命やってきて、縁の下の力持ちくらいの存在にはなれている、と自負していたから、まさかクビを言い渡されるなんて、この瞬間まで、これっぽっちも想像していなかった。

(私って、バカだ……部長と一緒にいられて、ちょっとだけドキドキしてたなんて……)

 コーヒーが運ばれてきた。

 白い湯気の向こうに、表情の読めない綺麗な顔が揺れている。

「最近寝てないだろ。目の下にクマができてる。無理しすぎて自滅する奴を俺は今までたくさん見てきた。お前にはそうなってほしくないんだよ。だから、な」

 言葉を失った真央の目をまっすぐに見つめ、二ノ宮はさらに衝撃的な言葉を口にした。

「会社をやめたら、俺がお前の面倒を見てやる。だから俺のところに来い」

(部長のところへ?)

 はっ、と意識が浮上していく。

 考えてみれば今はまだ五月だ。

 来年度までには猶予がたっぷりある。

「部長、それはどういう意味ですか……?」

「お前の想像通り、俺の嫁になれって言ってるんだよ」

 いたずらっぽい口調でそう言うと、二ノ宮はにやりと笑いかけてきた。

 かーっ、と体中の血液が、顔に集まってくる。

「俺の立場で社内の女とつきあうにはそれなりの覚悟がいる。くだらないことを言ってくる奴も出てくるだろうからな。だから告白するときには結婚を前提に、と決めていた。お前、この間二十五になったよな。頃合いだろう」

 聞き間違いでも勘違いでもないらしい。

(嘘……これってプロポーズ……?)

 真央の黒目がちな瞳が戸惑いに激しく揺れはじめた。